アウトリガーカヌー・ナビゲーター  フジオの人生山あり海あり日記

海やイヌや山や旅や自分の事などをお話しながら、フジオの生き方を伝えていくmemo

やって来たことを後悔せずに、 前に進めていく活力に変えていくこと

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「今自分の置かれている環境は

 自分が経験して来た事実の積み重ね。

    それによって出来上がっている。

 だから

 やって来たことを後悔せずに、

    前に進めていく活力に変えていくこと」

そういう視点を自分で持つことが大事なんだと感じています。

 

今は一年中海海海!!

と言っています。

しかししかし、

12年ほど前までは、山の人でした。

山の人と言っても、登山では無く滑る方。

3点の写真は

僕の山の時期を象徴するような写真たちです。

赤い服着ているものは

競技スキーをやっているところです。

これは生まれて初めて大会に出た時の写真。

時代を感じさせる道具たちと自分の顔です。

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後の2点は富士山を滑った時のもの。

富士山は頂上から2回。

下部の双子山(1800mほどの山)へは6回ほど滑りにいきました。

そのうちの1回は小1の長女と2人で雪遊びをやりに行きました。

 

小さい頃から親に連れられて行っていたスキー。

中学生からは独りで夜行バスや列車に乗って行ったスキー。

車に乗り始めたら競技スキーに変わり、厳しさを味わい。

その後は自由さを求めてスノーボードに変化し。

さらに自由さを求めて、山にも登りました。

辛いからと登りたいと思いもしなかったのに、山に登りそして滑りました。

振り返ったら、競技スキーよりも厳しさを味わっていたというのはご愛嬌。

 

何やってんだろうな。

 

と思ったこともありましたが、なんの後悔もありませんでした。

元を正せば、親が山形県天元台に連れて行ってくれなかったら、

今の僕はないでしょう。

天元台に着いた時は夜でした。

山の上にあるホテルまではロープウェイで上がり、

そこから徒歩でホテルまで5分くらいだったと思います。

でも、その時は猛吹雪。

子どもが暗い中歩くような状況ではありません。

僕は父親の背中に捕まり、真っ暗吹雪の中ユッサユッサと揺られて、

ホテルまで連れて行ってもらいました。

中越しに見えるホテルの明かりが眩しかったのを覚えています。

そして建屋に入った時の安堵感。

忘れられない感覚です。

 

 

山での経験は僕の中で生きています。

今は独りで山に登って滑ろうという気は起こりません。

それをするには技術、体力、道具が必要だとわかったからです。

道具はお金を出せば手に入れられます。

でも、技術と体力を得るには時間が必要です。

いまはその時間を作ろうと思えないから実行しません。

まだ生きていたいので。

 

海の上は自由です。

でもそれは必ず生きて帰るという自己の責任の元に存在しています。

海のルールであったり、気象判断であったり、

自分の身を守る術を履行及び発揮して、初めて自由が得られるものだと考えています。

先に書いた安堵感は海に出ている今求めているものなのかなと、

ここの所感じることがあります。

生きて帰る、そして明かりのついた暖かい場所に戻る。

この安堵感はやはり天元台でのホテルの暖かさ。

40年以上前にホッとした場所。

それを探しあてるまでに、これだけの時間がかかったけど、

遠回りしたけど、後悔は無いです。

あるのは嬉しさ。

 

自分の置かれている環境は、自分が経験して来た事実の積み重ね。

それによって出来上がっている。

だから、やって来たことを後悔せずに、前に進めていく活力に変えていくこと

というお話でした。

 

最後まで読んでいただきまして
ありがとうございます


〜雪山を想像するだけで寒くなるクラブ〜

『モクプニアウトリガーカヌークラブせとうち』
 代表
 フジオ (小林富士雄)

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